資料江戸・京・大坂では


   今戸神社絵馬
江戸では

浅草花川戸あたりで商売をしていた老婆への恩返しに猫が夢枕で「私の姿を人形にして売れば福が来る」と告げたという話が残っているが、これは今戸で招き猫が作られ始めた文化・文政(1804〜1830年)の頃と一致するので、招き猫販売用に作られた因果話だといわれている。


両国回向院の前に道を挟んで猫を飾る二軒の娼家があった。ある日、銀猫を飾る娼家のおかみが古着屋(近江屋)の番頭と心中する事件があり、これが芝居になって有名になった。商売敵だった金猫を飾る店は、その後大繁盛したので、猫を飾るようになった。

  回向院犬猫塚

   
被官稲荷(浅草)    出世稲荷(両国)
被管稲荷は江戸・浅草寺境内にあり、安政5年(1858年)新門辰五郎の妻が重病にか
かったので、京の伏見稲荷に祈願し無事回復した。それを喜んだ辰五郎が分身を勧
請したという。 このように江戸には伏見から勧請したといわれる稲荷社が多く稲荷信
仰と同時に土人形も広がっていったようだ。
京・大坂では

伏見人形店「丹嘉」
奈良朝以前に深草に住みついた土師部が、ここの良質の粘土で埴輪や土器を作り深草焼とか深草細工といわれていた。
その後土人形を作り、伏見稲荷の土産として全国に広がり50軒ちかくあった人形店も今では丹波屋嘉兵衛『丹嘉』のみとなっている。
伏見人形は土人形としては最古のものだ。全国に散って博多人形・今戸土人形・半田の乙川人形へと各地の特徴を持った土人形になってゆきましたが人形の型枠は全て伏見人形の物だと聞きびっくり!

門真神社
昔は自由に白砂糖が使えず(1850年頃から普及)白砂糖を使用した物を上菓子・黒砂糖や雑穀で作った物を駄菓子といわれていた。駄菓子が売られていた門真神社は、京街道に近く、京・大坂・河内への要所だった。がらすけが京街道を上り、伏見へさらに伏見から今戸へ行って招き猫になったと思えば すごく嬉しい。